REPORT レポート・調査
2023年6月6日

IPEF「サプライチェーン協定」実質妥結の概要と意義(2023年5月 JBpress掲載)

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5月27日に「繁栄のためのインド太平洋経済枠組み(IPEF)」の閣僚会合において、「サプライチェーン協定」交渉が実質的に妥結した。参加国間の協力によるサプライチェーン強靱化のための取り決めに日米両国を含むインド太平洋地域の14カ国が合意したことは、日本企業の事業活動にも少なくない影響を与えるだろう。また、これは日米両国等が進めるフレンド・ショアリングによるデリスキング(リスク軽減)の具体化の第一歩でもあり、今後の行方が注目される。

※2023年5月30日付のJBpressの記事を一部変更して掲載しています。

I. IPEF閣僚会合で「サプライチェーン協定」が実質妥結

 

2023年5月27日、米デトロイトで開催された「繁栄のためのインド太平洋経済枠組み(IPEF)」の閣僚会合において、「サプライチェーン協定」交渉が実質的に妥結した[1]。2022年5月に立ち上げられたIPEFにとって初めての具体的成果であり、サプライチェーン(供給網)に特化した初めての多国間協定である。今後、最終的な条文確定や署名、参加各国の国内手続きを経て、発効することとなる。

 

IPEFは、日本や米国などインド太平洋の14カ国が参加する経済枠組みであり(図表1)、「貿易」、「サプライチェーン」、「クリーン経済」、「公正な経済」の4つの「柱」で交渉が行われている(図表2)。今回、そのうちの第2の柱「サプライチェーン」において交渉が実質的に妥結した。GDPで世界の約4割(約38兆ドル)、人口では3割強(約25億人)を占める諸国がサプライチェーンの強靱化を目指す取り決めに合意したことは、世界経済にも、また、日本企業の事業活動にも少なくない影響を与えることになるだろう。

 

 

他の3つの「柱」についても、「クリーン経済」において日本とシンガポール主導の下、一部の参加国で「地域水素イニシアティブ」を立ち上げることで合意するなど、一定の進展がみられた[2]。今後、11月のAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議時の合意を目指して交渉が進められる。

 

 

II. サプライチェーン強靱化に向けた政策調整・協力

 

米商務省によれば、本協定により、参加国が「広範な混乱を招く前に、サプライチェーンの潜在的な課題を特定するための協調を促し」、「サプライチェーンの強靭性、効率性、生産性、持続可能性、透明性、多様性、安全性、公平性、包括性を高めるために協働する」[3]

 

そのために、2つの仕組みが設けられた。「IPEFサプライチェーン協議会(IPEF Supply Chain Council)」と「IPEFサプライチェーン危機対応ネットワーク(IPEF Supply Chain Crisis Response Network)」である。

 

「IPEFサプライチェーン協議会」は、重要分野における強靭性と競争力の構築のための分野別行動計画の策定を監督する組織であり、サプライチェーンの脆弱性が重大なボトルネックになる前に企業がそれを特定し、対処することを支援するとされている。

 

「IPEFサプライチェーン危機対応ネットワーク」は、参加国がサプライチェーンの危機に直面した際の「緊急連絡網(an emergency communications channel)」であり、危機へのより効果的な対応を促すものとされている。

 

これらの仕組みによって、参加各国が自国の重要分野・物資を特定・監視することを支援して、重大なサプライチェーンのリスクについての参加国の共通理解を深めることが期待されている。また、サプライチェーンの危機時の調整や対応を改善して、影響を受けた物資の時宜に適った供給を支援するために参加国が協働することが目指されている。これらでは、半導体や重要鉱物、医薬品等の重要物資の生産や在庫に関する情報共有や、危機時の重要物資の融通に向けた協力等が想定されているとみられる。

 

その他にも、本協定が目指すこととして、重要分野・物資に関する投資促進や規制の透明性の向上、物流・インフラの強化、技術支援・能力構築、市場原理の尊重と不必要な貿易制限等の市場歪曲の最小化、企業の機密情報の保護などが挙げられている。

 

一般的な自由貿易協定(FTA/EPA)においては、企業がこれを活用することで効果が最大限に発揮される。本協定においても、参加国政府だけでなく企業がこれを活用してサプライチェーンの強靱化を進めることが、協定が効果を発揮する上で重要になるだろう。本協定に基づく仕組みや参加国間の協力が具体的にどのような事業機会や負担を企業にもたらすことになるのか。最終合意を待って精査する必要がある。

 

III. 米主導による「労働」重視

 

本協定の特徴として、労働者の権利保護の重視が挙げられる。これは、「労働者を中心に据えた通商政策」を掲げる米国の主導によるものだろう。米国は、IPEF参加国のサプライチェーンにおける労働者の権利の尊重・促進を本協定の目的の1つとしている。

 

本協定は、「IPEF労働者の権利に関する諮問委員会(IPEF Labor Rights Advisory Board)」の設置を定めている。同委員会は、政労使三者構成で、「参加国のサプライチェーンの強靭性や競争力のリスクとなる労働者の権利に関する懸念が生じる領域の特定を支援する」とされている。さらに、労働者の権利の侵害に関する「事業所特定の(facility-specific)申立」への対処のための参加国間の協力メカニズムを創設するとされている。

 

米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)には「事業所特定の迅速な労働問題対応メカニズム(RRM)」があり、米政府がメキシコ政府に対してメキシコ国内の特定事業所における労働問題への対応を求めるケースが相次いでいる。RRMでは、問題が解決に至らない場合には、当該事業所からの輸入に対してUSMCA上の関税削減・撤廃の特恵を停止することもできるが、サプライチェーンに特化した本協定に同様のメカニズムを設けることはできない。米国と新興国・途上国の間で意見の隔たりが大きい労働問題への対処について、本協定でどのようなメカニズムが創設されるのか。最終合意が待たれる。

 

 

IV. フレンド・ショアリングによるデリスキングの第一歩

 

IPEF参加国が今回、他の3つの「柱」に先んじて「サプライチェーン」について合意できたのは、コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻によるサプライチェーンの混乱を参加各国が経験していたことが大きいだろう。加えて、交渉を主導する米国や日本等が経済安全保障の確保のためにサプライチェーン強靱化の取り組みを推し進めていることが早期の合意を後押ししたと言えるだろう。

 

IPEF閣僚会合の前日に開催されていたAPEC(アジア太平洋経済協力)貿易担当大臣会合は、ロシアのウクライナ侵攻に関する文言に中ロ両国が反対したため、共同声明を発出することができなかった[4]。1週間前のG7広島サミットでは、「デカップリングではなく、多様化、パートナーシップの深化及びデリスキングに基づく経済的強靱性及び経済安全保障への我々のアプローチにおいて協調する」ことを謳った首脳宣言が発出された[5]。これらの出来事の直後にIPEFが「サプライチェーン協定」で実質妥結したことは、米国とそのパートナー国がフレンド・ショアリングによるデリスキング(リスク軽減)を強力に推し進めていくことを象徴しているようにみえる。

 

自由や民主主義、人権尊重、法の支配といった基本的価値を共有する同志国(like-minded countries)による安全で信頼できるサプライチェーンの構築を目指すフレンド・ショアリングによって、地政学的リスクの大きな国・地域への過度の依存を緩和し、リスクの軽減を図るデリスキングを進める上で、日米両国や韓国、オーストラリア等とインド太平洋地域の新興国・途上国を多く含むIPEFがサプライチェーン強靱化のための政策調整・協力の枠組みで合意できたことは、その具体化に向けた第一歩を踏み出したものと評価できる。

 

しかし、その前途は多難である。「サプライチェーン協定」は、今後最終合意に向けた条文確定等の交渉が行われるとみられるが、その過程で「労働」の扱いをめぐる問題等で、参加国内からの反対の声や、参加国間の意見の相違が明らかになることが懸念される。他の3つの「柱」についても、今秋までの合意は容易ではない。例えば、「貿易」の柱における労働、環境、デジタル貿易では、米国と新興国・途上国の間に加え、米国内でも意見の相違が大きい。

 

前日の5月26日に行われたキャサリン・タイ米通商代表との会談で、王文濤中国商務相はIPEFへの懸念を表明した[6]。IPEFをめぐって米中の対立が深まれば、米中の大国間競争に巻き込まれたくない新興国・途上国のIPEFへの関与も危ぶまれることになるだろう。シンガポールのローレンス・ウォン副首相兼財務相は、「東南アジア諸国連合(ASEAN)の加盟国はどちらかを選ぶことを強制されたくない。米国と中国の両方とつながりを強めたい。新たな冷戦は誰も望まない」、「国や企業がリスクを軽減したいと考える理由を理解しているが、デリスキング(リスク低減)が行き過ぎると、デカップリング(分断)な世界経済になる」と警告を発している[7]

 

参加各国は、IPEFがデリスキングに必要な水準を超えて、中国等との分断を招くものとならないよう、また、参加各国がサプライチェーン強靱化を口実にした保護主義に走らぬようにする必要がある。IPEFの実現に向けて、「G7とグローバルサウスの橋渡し」、「中国との建設的かつ安定的な関係の構築」を掲げる日本への期待は大きい。

 

[1] U.S. Department of Commerce, “Press Statement on the Substantial Conclusion of IPEF Supply Chain Agreement Negotiations,” May 27, 2023

[2] U.S. Department of Commerce, “Press Statement for the Trade Pillar, Clean Economy Pillar, and Fair Economy Pillar,” May 27, 2023

[3] U.S. Department of Commerce, “Substantial Conclusion of Negotiations on Landmark IPEF Supply Chain Agreement,” May 27, 2023.

[4] Office of the United States Trade Representative (USTR), “APEC Ministers Responsible for Trade Meeting Chair’s Statement,” May 26, 2023

[5] 外務省「G7広島首脳コミュニケ」、2023年5月20日

[6] 「中国商務相、IPEFに懸念表明 供給網強化をけん制―米通商代表と会談」、時事通信、2023年5月27日。

[7] 「分断より共存のアジア シンガポール副首相兼財務相 ローレンス・ウォン氏 米中協力の基盤を」、日本経済新聞、2023年5月29日

 

株式会社オウルズコンサルティンググループ
プリンシパル(通商・経済安全保障担当)
菅原 淳一

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